社会と宗教

路地裏での出来事

 本日、夏用の服を買うため某服屋に行った。その帰り道、駅の階段を上ろうとしている最中に青年が話しかけてきた。彼曰く、「生きる土台となっているものは何か聞きたい」という。私は難しい質問だなと思い、しばらく考え込んでいると、その青年が「座って話をしましょう」と言い、私を薄暗い路地裏のスペースに招いた。そこは周りを建物に囲まれており、円柱状の椅子がぽつぽつと存在するだけの箱庭だった。
 この空間に私が誘われた際、まさかここから2時間近く激論を交えることになるとは思いもしていなかった。

 最初、青年は生きる土台について知りたいという態度だったから、私も一緒になって考えてみようと思っていたが、椅子につくなり青年は「顕正会の新聞のようなもの」を取り出した。この時点で、私の胸には何か嫌な予感がした。
 青年は新聞を私に見せながら、「生きる土台となっているものは生命力と運だ。」と語った。おいおい、生きる土台が分からなくて知りたいんじゃなかったのか、と心の中で突っ込みを入れながらも青年が一生懸命語り掛けてくるので、話を聞いてみることにした。

 要約すると、日蓮大聖人の教えを信じれば成仏が達成され、何やかんやあって世界が救われるらしい。また、教えを守らないと天変地異や外患(露、中、北)と戦争するような災厄が降りかかる。すなわち、正しい行いをして悪をやっつけようという典型的な勧善懲悪の思想を説かれた。

 私はそういった宗教の類は信じないので、青年にいろいろ反論をぶつけてみた。例えば、青年は「中国、北朝鮮は野蛮な国で、日本に攻めようとしている。しかし仏の国である日本は、日蓮大聖人の教えを守れば救われる。」と言ったのに対し、私は「中国、北朝鮮が日本の領土を奪ったことはない。しかし日本は、中国や朝鮮に攻めこみ領土を奪った。これのどこが仏の国なのか。」と返した。青年は答えられなかった。
 そこに、近くで話を聞いていたおじさんが話しかけてきた。急に表れたおじさんにあっけにとられていると、おじさんは青年に目を合わせた後、私にこう言ってきた。「私も顕正会の者なんだけど、ちょっとお話しできるかな?」相手方に増援が来たというわけだ。

 おじさん曰く、日本が朝鮮や中国に攻め込んだのは「罰」らしい。ちょうど小さい子が熱々のやかんに触ろうとしたときに親が「ダメでしょ!」と言いながら手をひっぱたくのと同じ。すなわち、しつけのためにやっているのであって、その動機は慈悲の心からだと言うのだ。もっともらしくおじさんは語っていたが、私はこの意見には賛同できない。
 たとえしつけのための罰だとしても、何百万人の人間を殺し、その人たちの土地を奪うことは、ダメだと私は思う。そんな教えの宗教には賛同できない。やっていることがキリスト教の十字軍と一緒だ。

 また、私はおじさんにこう尋ねた。「なぜ日蓮大聖人は人間しか救わないのか?」おじさん曰く、人間と動物では知性が違うから、動物は仏になりえない。と。
 私はチャールズ・ダーウィンの創造論を借りて次のように論じた。「人間はサルから進化したのに、サルが救われずに人間が救われるのは都合がよすぎる。同様の理由で、生きとし生けるもの中で人間だけが救われると考えるのは傲慢ではないか?」と。

 私が生意気そうに現代科学の常識を持ち出した矢先、おじさんは衝撃の一言を口にした。
「君って、進化論を信じているの?」
 私はこの一言を聞いた瞬間、この人と私は一生、分かり合えることは無いんだなと感じじた。私は動揺を隠すために「はい。そうです。」と軽く返事をしたが、内心、価値観を合わせられない悲しさを感じるとともに、宗教の魔力を思い知った。

宗教は薬か?麻薬か?ウイルスか?

 現代のアメリカにおいても、キリスト教の創造論を信じている人は人口の半数近くに上る。そういった人たちは、人がサルから進化したという、ダーウィンの進化論は嘘っぱちだと主張しているが、もう既に宗教は、現代科学と啓蒙思想に敗れたのだ。よいか悪いかは別として。

 とは言いつつも、宗教にはまってしまうのも無理はない。宗教は大きく分けて2つの成分を通じて、私たちの心の支えになっているからだ。1つ目は、罪の浄化である。


 人類が最初に”罪”の意識を覚えたのはおそらく、食肉を得るために動物を殺したときだろう。アブラハムの宗教でいえばこれが原罪(アダムがリンゴを食べたからというのは抽象化のための作り話)と呼ばれるものの正体で、インドの宗教でいえば、業と呼ばれるものの正体である。

 人が生きるためには、動物を殺さなくてはならない。その罪を、人間が受け入れるのはとても苦しいことだ。誰かに罪を擦り付けるか、適当な言い訳を考えねばならない。アブラハムの宗教では、神が人間に生きとし生けるものすべてを統治する権限を付与したから、この殺生が許されるという、自己中心的な教えがある。つまり、神に罪を擦り付けている。インドの宗教では、動物(畜生道)に生まれたものは前世で罪を犯したからその罰だという言い草で、自分たちの殺生行為を正当化しようとしている。

 人は罪を認めたがらない。罪を認めれば、自分が罰せられてしまうと思っているからだ。
 宗教を信じてさえいれば、自分の行為は神仏のもとに正当化される。正当な理由なくして、このような残虐な行為は不可能である。心が壊れてしまう。

 2つ目、宗教は生きる意味をくれる。これは以前、宗教における生きる意味について語ったので、そちらを参照してほしい。端的にまとめると、アブラハムの宗教では正しい行いをして天国に行くこと。インドの宗教では徳を積んで、永遠の苦しみから解放されることを生きる目的としている。

 宗教はいわば、精神安定剤として機能している。ただしその依存性は強く、一度はまったら抜け出すことは不可能に近い。そう考えると、麻薬と呼んだほうが正しいか。
 また、宗教は感染症のように伝染する。これが非常に厄介な性質で、洗脳された人々は布教活動を通じて周りの人の思想を塗り替え、新たな信者を生み出す。この性質は癌ともウイルスとも呼べるだろう。

 いずれにしろ、私は宗教に溺れる人は心の弱い人間なんだろうなと思う。ニーチェが言ったように、宗教に頼らずに生きてこそ初めて、人間の理想である超人になることができると私は考える。まあ、当のニーチェ本人が宗教を止めたとたん発狂して死んでしまったから難しいだろうが。

 もう1つだけ私の確固たる意志を述べさせていただくと、宗教という伝染病をばら撒いた預言者たち(prophets)を、私は心底尊敬しない。

正義と悪

 ほとんどすべての宗教は善を勧め、悪を懲らしめる高き理想を掲げている。正義のヒーローになりたくて人々はみな、宗教にのめりこんでいく。しかし、そして実際のところ、いくら高い道徳心をもってしても世界は救われない。思い出してみよう。この世はゼロサムゲームだということを。

 誰かを救うことは、誰かを陥れることになる。生きることは、殺すこと。悪が消滅すれば、正義はどうなる?光があるところに影はある。創造は破壊からしか生まれない。

 これらは皆、表裏一体なんだ。片方が存在するからもう片方が存在できる。悪役のいじめっ子がいるから正義のヒーローができる。裏を返すと、悪が破滅すれば、正義も破滅する。

 悪を罰するべきという考えが広がりすぎている。皆が皆、正義のヒーローになりたいと思うから、正義の剣を振りかざして気持ちよくなりたいから、この世には悪役が不足している。悪役がいなければ、でっちあげるしかなくなる。そして作り上げた悪と正義の間に戦いが始まる。つまり………正義が争いを生み出している…。

 正義を求め続ける限り、争いは終わらない。私は正義を諦めることにこそ、平穏かつ高尚な人生を送るためのカギが隠されているのだと思う。

罪と罰

 「罪を犯した者は罰せられる。」

 これは宗教の有無によらず、私たちの常識となっているが、なぜ罰せられるのかについて深く考えている人は少ないだろう。ごく稀に、罪は存在するがそれに対応する罰が存在しないものもあるが(売買春など)、そういう例外は置いておいて、ここでは罪に対して1つ1つ対応する罰があると考えることにする。

 実は、この概念にはコペルニクス的転回が適用できる。つまり、「罪を犯すから罰せられる。」のではなく、「罰せられる行為が罪となる」というのが正解だ。

 たとえば人を殺すと、社会によって罰せられる。だから殺人は罪なのだ。
 ものを盗んだら、社会によって罰せられる。窃盗も罪である。

 でも、もし時代が原始時代で、社会システムが存在しなかったとき、殺人は罪になりえただろうか?窃盗は罪になりえただろうか?
 罰が存在しない時代では、罪という概念もまた存在しえない。すなわち、罪という概念は社会が生み出したものに過ぎないのだ。

 罪と罰の対応表が法律である。ハンムラビ法典は太古の昔に作られた法律として有名であるが、罪と罰の対応関係は現代の法律とは全く異なる。「目には目を。歯には歯を。」といった感じで、身分の同じ被害者と加害者には同害復讐の原則があった。しかし、現代の法律ではたとえ相手の目をつぶしたとしても、自分の目をつぶされる心配はないだろう。

法律:社会における聖書

 法律は時代によって、罪と罰の換算レートが変わる。また、時代が進むごとに新たな罰が必要とされ、それによって罪も新たに作られる。たとえば、著作権を犯すことに対する罰は、中世のころは無かった。しかし現代では、その行為を取り締まるための罪と罰が定義されている。

古い時代には、著作権侵害は罪ではなかった。

それが現代において、著作権侵害は犯罪だという認識が我々の常識となっている。時代が進むにつれ、社会というものは自身の都合のいいようにルールを変え、人々にそのルールを強要してきた。人々はルールを刷り込まれ、いつの間にかそれを常識と信じて止まない。

 これは宗教ににている…?

 私は、この社会と宗教というものが非常に似ていることに気づいた。両者は自分たちの都合のいいようにルールを作り替え、人々に常識として刷り込み、洗脳してきた。我々は自分たちがおかしなルールに囚われていることに気づいていない。だから、罪を犯したことに対して罰則があることを疑いもしない。極端なことを言うと、人を殺すことは悪であると思い込んでいる。でもそれはナゼ?

 その常識はどこから来たのか。誰が決めたのか。世界が宇宙が決めたことなのか。悪とは何だ。どんな時代でもその原理原則は存在したか?

常識を疑え。

 私は、人の心の弱みに付け込み、洗脳する「宗教」というものを激しく非難してきた。しかし、それがどうしたことか。私自身、「社会」という宗教を盲信し、そのルールに囚われて生きてきてしまった。そしてこれからも、「社会」という蜘蛛の巣から脱出するすべは見つけられないだろう。蝶は生まれた瞬間から、蜘蛛の巣の中に居たんだ。

私に宗教を批判する資格はないのかもしれない。

 

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